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欲望を吹き込む実験小説『無情』

李光洙の部屋にもどる

 

中国で最初の近代小説が魯迅の『狂人日記』(1918年)なら、韓国で最初の近代小説はその前年に25歳の東京留学生李光洙によって書かれた『無情』である。儒教によって心の底まで束縛されていた朝鮮の人々に対して、なんとしても生きよ、富と美を求める大欲望をもて、それが民族の生きのびる道だと主張する論説文を書いて「情」による啓蒙をおこなっていた李光洙が、欲望の鼓吹のために書いた小説、それが『無情』であった。この小説で注目されるのは、当時早稲田大学哲学科の学生であった李光洙が、心理学や精神分析の新しい知識を登場人物の心理描写に応用していることである。朝鮮最初の近代長編小説『無情』は、心理学を応用した実験小説でもあったのだ。『無情』は1917年1月から6月まで、に当時朝鮮で唯一の朝鮮語新聞「毎日申報」に連載された。

 大金持ちの金長老から一人娘の家庭教師を依頼されて屋敷を訪れた京城中学校の英語教師ヒョンシクは、見上げるような大門のまえで躊躇する。「ごめんください」という声も震えるほど彼を緊張させたのは、京城でも屈指といわれる金長老の富と、優秀さと美しさで名高い女学生ソニョンとの出会いであった。突然の依頼が一介の貧乏教師に芽生えさせたかすかな野望と自尊心のあいだの葛藤が、彼の声を震わせたのだ。

同じ時間に、彼が不在の下宿を訪ねた女性がいた。孤児になったヒョンシクを養育してくれた恩師朴進士の娘ヨンチェである。国の将来を憂えて教育に身をささげた恩師は無実の罪で獄死し、ヨンチェは父を助けるために妓生になっていた。ヒョンシクの妻になれという、幼い日の父の言葉を忘れずに純潔を守りつづけた彼女は、この日、ついに彼を訪ねて来たのだった。

夜ふたたびヨンチェはヒョンシクを訪ね、2人は7,8年ぶりに再会する。だが、ソニョンとの出会いによって火をつけられたヒョンシクの身分上昇に対する潜在願望は、ヒョンシクの心理に様々な動きをひきおこした。表面の心理では義理ある恩師の娘と結婚すべきだと決心しつつも、ヒョンシクの深層の欲望はヨンチェが妓生であり、純潔でないことをひそかに願って、彼女にたいする感情を猫の目のごとくくるくると変化させるのだった。ヨンチェは、ヒョンシクが思ったほど自分の出現を喜んでいないことを察して傷つき、妓生になったことを打ち明けられずに帰ってしまう。残されたヒョンシクの心は、2人の女性のあいだで揺れる。恩師の義理を思えばヨンチェを妻にすべきだと思いつつも、富と教育と美しさを兼ね備えたソニョンの幻が彼をとらえて離さない。

悪い客に純潔を奪われそうになり、そのうえ現場をヒョンシクに見られて絶望したヨンチェは、自殺しようと平壌に向かった。しかし車中で知り合った東京留学生ピョンウクの説得で思いとどまり、彼女の家で生きる意志を取り戻していく。一方、ヨンチェを追って行ったヒョンシクは、非日常空間ピョンヤンでふだんの彼とはまったく違った姿を見せることになる。警察署に行ってヨンチェが保護されていないことを知ると、彼はすぐにヨンチェが自殺したと思い込んで空腹と解放感を覚えた。解放感は次第に高まっていき、恩師のみすぼらしい墓を前にして絶頂に達した。墓の前でヒョンシクが感じたのは、恩師とその娘の惨めな運命に対する同情と悲しみではなく、生への激しい執着と不思議な生命の歓喜であった。ヒョンシクはいつもとは違う自分の姿を違和感なく受け入れて微笑んだ。しかし夜汽車が日常空間ソウルに近づくと、ヨンチェの遺体を捜さなかったことへの後悔が彼をおそう。

ソウルに帰ったヒョンシクのもとにソニョンとの婚約話が持ち込まれた。ヒョンシクの予感は的中し、彼は富とソニョンを手に入れたのだ。ソニョンとし婚約して一緒に米国留学することになったヒョンシクの内部で、義理に背いたことへの呵責は奥底に押し込められる。

米国に向かう車中でヒョンシクは、ピョンウクと一緒に東京に留学する途中のヨンチェに再会し、罪の意識にさいなまれる。ヨンチェは彼を恨めしく思い、一方ソニョンは生まれて初めて嫉妬に苦しむ。3人の葛藤を乗せた列車は、洪水のために三浪津で臨時停車した。家を奪われ、水害の被災者たちに温かい食事をふるまおうと、一行は駅の待合室で慈善音楽会をひらく。ともに行動しているうちに、最初は別々だった彼らの心が次第にひとつとなっていった。音楽会のあと、旅館の一室でヒョンシクは、我々が留学するのはあの惨めな同胞を救うためだと演説をし、ヒョンシクの言葉に感激した皆は、それぞれ将来の抱負を述べあう。こうしてヒョンシクの身分上昇は、<民族への奉仕>という崇高な目的と結びつき、若者たちの葛藤もまたこの目的の前に融和したのであった。

 

<参考文献>
・ 波田野節子「無情の研究(上)」 1993 『朝鮮学報』No.147
・ 波田野節子「無情の研究(中)」 1994 『朝鮮学報』No.152
・ 波田野節子「無情の研究(下)」 1995 『朝鮮学報』No.157


 

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